安政2年(1855)~大正9年(1920)
杵築煙硝倉の人。明治9年(1876)に、代言人試験に合格し杵築初の弁護士となる。
明治13年(1880)には、金丸鐡らと共に「東京法学社(現法政大学)」を創立した。後に、豊後高田市の玉津裁判所、日田市の豆田区裁判所の判事も勤める。
嘉永5年(1852)~明治42年(1909)
代言人(弁護士)として元田直の事務所で訴訟業務に従事。
「時習社」社主兼編集長として明治10年(1877)に、日本最初の法律雑誌「法律雑誌」を発刊する。明治13年(1880)には、伊藤修らと共に「東京法学社(現法政大学)」を創立した。